スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

はじめに

新人作家、城島大のブログへようこそ。

作家志望に戻ってしまった城島大が、いかにして作家に戻るかを模索し、奮闘する過程をだらだらと書いていくブログです。
仕事募集中
仕事のご依頼がありましたらメールフォームよりご連絡ください。


『カクヨム』にて作品を公開中。

カクヨム
長編
エンブレム・オブ・リバティ現在更新中!
誰かがいらない恋愛ハーレム
名探偵の倒し方※現在非公開中
短編
ルールを知らない男


『ちっちゃいホームズといじわるなワトスン』が絶賛発売中


ツイッター:@joujimauthor
フェイスブックはこちら
スポンサーサイト

シンプルイズベスト



昨日、『エンブレム・オブ・リバティ』を更新した。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054880207027



『カーズ3』を観た。
映画館で鼻水垂らすくらい泣いてしまった。

やっぱりピクサーは神だということを再確認できたよ。


重厚なテーマを語るためには重厚なストーリーが必要だと心のどこかで考えていたが、それがただの言い訳だったことに、この映画を観て気付いた。

僕は重厚なテーマなんか持っちゃいない。
そのテーマへの理解が足りないのを、重厚という言葉でごまかしているだけだ。
本当に書くべきテーマがきちんと理解できているなら、子供が見ても分かるようなシンプルなテーマになるはずだ。
そしてそれを語るストーリーも、シンプルでスタイリッシュなものになるはずだ。


宮崎駿監督がジョン・ラセター監督を評価する時に言っていた言葉がある。
クリエイターというのはどうしても拘りを持ってしまい、何かを突き詰めようと複雑なものを作ろうとしがちだが、ラセター監督はそれを徹底的に排除しようとするのだとか。
ソース元が見つからなくて若干ニュアンスの違いがあるかもだが、確かこんな風な言葉だった。

その姿勢こそが、ピクサーが誰かを救うために作品を作っている証だ。


誰かを救うための言葉は、たった一言でいいし、気の利いた言葉である必要もない。
ただそれを、心の奥深くに届ければいいのだ。
シンプルで素朴なたった一言を、自分に投げかけたものだと読者に知ってもらうために、物語は存在するのだろう。

今僕が書いている『エンブレム・オブ・リバティ』。
何百ページになるか分からないが、この物語も、本当はたった一言を言いたいだけなのだ。
その一言が何なのか。
きちんと自問自答しながら書いていきたいと思う。

小説は自分の心


『エンブレム・オブ・リバティ』を更新しました。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054880207027


久々の更新です。
何もやる気起きねーなぁと思ってダラダラしてたら、台所がヤバイことになっていた。
精神と自分の部屋って、割と連動するものなのかもしれない。


唐突だが、僕は自分の主張をキャラクターに喋らせるような作品が苦手だ。
○○は反対という意見をキャラクター達に無理やり言わせている気がして、親が自分の価値観を子供に強要しているような胸糞の悪さを感じる。

しかし最近、そもそも小説というのは作り手の心が否が応にも浮き彫りになるものなのかもしれないと思い始めた。


少し具体的に話そう。
この前、『兄の嫁と暮らしています。』という漫画を読んだのだ。
兄が死んで天涯孤独になった高校生の妹が、兄の嫁だった人と二人で暮らす話だ。
割とほのぼのした話なのだが、兄が死んだという事実が常に背景で見え隠れしていて、どことなくほの暗い。
その漫画の中で、妹が昔入っていたバレー部を辞めたエピソードが出てくる。
今でもバレーは好きみたいなのに、辞めた。しかも辞めた理由というのが、特にないのだ。

それを見て僕は、「ああ、この子は自分を諦めてしまったんだな」と思った。
それでふと、自分が昔書いていた作品も同じようなキャラクターがいっぱい出てきたことを思い出し、「あれ?オレもこの子と同じじゃね?」と思ったのだ。

僕は友達もいないし彼女もいない。そのことに関して、「やっぱいた方がいいかなぁ」くらいの軽い気持ちで欲しいと考えてはいるが、まあ基本的にはどうでもいい。
でも昔の僕なら、絶対そんなことは思わない。彼女は置いておくとしても、友達は絶対欲しいと思っていた。

不登校だった時期も、ごくごくたまに遊びに来てくれる友達がいるときは、鬼のようにはしゃいだものだ。


なら、どうして今は欲しくないのか。
そのことを突き詰めて考えると、どうやら僕はその時の感情を『捨てた』ようだ。
不登校になって、ずっと悶々と一人で考え続けて、他人に期待することを諦めたのだ。
そしてその時に、一緒に何かを落としてしまった。

僕は常々、あの不登校時代がなかったら小説家になる夢は持てなかっただろうと考えていた。
不登校になる前の僕は文字通りの鼻たれ小僧で、物事について何も考えていなかったからだ。

でも最近は逆かもしれないと思い始めた。
不登校になって、何かを捨てた経験が、もしかしたら今の僕にとって一番の弊害なんじゃないだろうか。


思い返してみれば、うまく小説がまとまらない時というのは、大抵変な方向に頭が向かってしまっている気がする。
これを伝えるべきという『感性』と、物語を客観的に評価する『理性』がうまく調和していない。
『感性』を『理性』がうまくコントロールできていない。
今まで書いてきた小説は、だいたいそうやってダメになっていった気がする。

それが起きるのは、結局『理性』が『感性』を理解できていないからだろう。
不登校になって、物事について考えるようになって生まれた『理性』。
でも何かを落としてしまった『理性』は、その何かが分からないから、『感性』を完全には理解できない。


僕は以前、ジョーさんとダイという主人公のいる作品を書いた。
言わずもがなだが、これは僕自身をモデルにしている。
『理性』がダイで、『感性』がジョーさんだ。

この話は書いてるだけで楽しかったので、ほとんど成り行きに任せて物語を進めていた。
そしたらいつの間にか、ダイがジョーさんという存在に劣等感を抱いていることになっていた。
自分がいない方がジョーさんは小説家として成功するんじゃないかと、ダイは作中で語っている。

しかしその当時、僕はダイという存在に小説家としての才能を感じていた。
不登校が原因でものを考えるようになって、それがあったから小説家になろうと思えたと。
だからその部分を書いている時、「ちょっと事実と違うけど、まあいいか」とすら考えていた。

でも、僕自身本当は分かっていたのだろう。
不登校になって生まれた『理性』が、本当は小説家としての自分の足を引っ張っているんじゃないかということを。


常々、僕は自分を論理的な人間だと思ってきた。今でもそれは変わらない。
でもどうやら僕は、理屈よりも直感の方が優れているらしい。
そうじゃなければ、自分で理解すらしていなかった事実を、小説の中に描くことはできなかったはずだ。


小説は自分の心を全てさらけ出す。
自分の書くものに無気力なキャラクターが多いのも、全て自分自身を映し出しているからだ。
つまり物語もキャラクターも、全て僕自身なのだ。

以前、自分のことは諦めがつくけどキャラクターのことなら諦められないと言っていたが、どうやら僕は自分のことも諦められないらしい。

キャラクターというデフォルメの中では諦められないのに、現実の自分は諦められる。
もう一段ステップを上がるには、この辺りのゆがみをどうにかして矯正するべきなのかもしれない。
矯正する方法は……まぁ、いくつか思い当たる。思い当たるが、今はまだ実践しようという気分にならない。

ビビっているのか、面倒くさいのか、それとも時期ではないと思っているのか。
その辺りはよく分からないが、まあやる気になるのを気長に待ってみようと思う。

やっぱり、自分のことを理解するって、すごく難しいことだね。

『面白い』の本質

『エンブレム・オブ・リバティ』を更新した。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054880207027


およそ一か月ぶりの更新。

小説を書き始めてからというもの、毎日欠かさず一行は小説を書くようにしていた僕だが、今回はかなり長い期間、ワードすら開かずに過ごしてみた。

イチロー選手が言うには、打てない時にバットから離れてどういう気分転換をするのかは、すごく大事なことらしい。

僕の気分転換がそんな有意義なものだったかというと、全然まったくそんなことはない。
割とダラダラしてた。
何も考えてなかった。

僕は一日に数回は物語の妄想に耽ることがあるが、この期間はそれすらなかった。


考えることを放棄して無気力に過ごしていたと思う。
それで何かが変わったわけでもないし、何かが回復した実感もない。
ないが、いつものように毎日小説に触れることができるようになったので、まあ回復したということだろう。


そういえば、その期間に考えていたことが一つだけあった。
それは昔の僕は、何を基準に『面白い』を決めていたのだろうか、というものだ。

たとえば僕は子供の頃、『ワンピース』が好きだった。
でも当時『ワンピース』を読んでいて、感動したという記憶がまったくない。
そう思いながら今『ワンピース』を読み返すと、キャラクター達の感情の爆発やセリフの節々に、滅茶苦茶感動するのだ。

自信を持って言えることだが、今の僕と子供の頃の僕とでは『ワンピース』に対する思い入れはまったく違う。
子供の頃の僕は、それこそ毎日のようにごっこ遊びをするくらい『ワンピース』にハマっていた。

でも、感動したという記憶が一切ないのだ。
カッコいい~‼ とか、このセリフ好き‼ とか、そういう単純な感情すら、当時は持っていなかったように思う。
じゃあ当時の僕は、『ワンピース』のどこにそんなにハマっていたのだろうか。


『ワンピース』だけじゃない。
当時放映していた『仮面ライダーアギト』や『ウルトラマンガイア』もそうだ。
夢中になって観ていたし、ごっこ遊びもたくさんやったが、何が好きだったのかよく分からない。
強いて言うなら、ユーモラスなところか?

ギャグが冴えてて笑えたという印象はあるが、あそこまでハマっていた理由は判然としない。
今見れば、アギトの設定に心惹かれるものがあるのが分かるし、ガイアのキャラクター達がとても魅力的だということが分かる。

分かるが、当時の僕はたぶん、そんなことは理解していなかった。
理解していなかったのに、理解していたのだ。だからあれだけハマっていた。

それが面白さというものなんだろう。


要するに、理解は不要なのだ。
物語の全容が分かっていなくても、矛盾があっても、夢中になれれば何でもいい。

そういう自由な感情が、面白いの本質なんだろうな。


今書いている小説は、色々なものの本質を見極めるためのものでもある。
『好き』、『面白い』、『王道』、そして『自分』。

書けなくなった時は『自分』を見失いかけたが、今はなんとか手で掴んでいる実感はある。
今のうちに、書けるところまで書いておこうと思う。

探偵グッズってかっこいいよね



エンブレム・オブ・リバティを更新した。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054880207027



パソコンの画面を全力でパンチしてぶち壊したい。

そんなことを毎日思っていた一週間だった。



悩んでいたのはどこかと言われれば……まあ、アクションですね。

本当はもっと大型生物との戦いでピンチになったりする予定だったんだ。
でも今回のバトルは新アイテムのお披露目的エピソードで、ピンチを持ってくる場所ではない。
そう判断するまでが長くて、さらにそこから納得のいくアクションが書けなくて、ずっとうだうだやってた。


アクションむずい。
いや、というよりはアイテムを使った見栄えの良い立ち回りがむずい。

最近マイブームの名探偵コナンは本当によくできている。
キック力増強シューズも麻酔型時計銃もかっこいい。
ああいうのが書きたかったんだけど、なんかうまく決まらんかった。
決まらんままで書いていいのか?とずっと思いながら、けっきょく「まあいいか」で済ましてしまった。

アイテムが現実離れし過ぎてるのかもなぁ。
シューズも時計銃も、うまく日常に取る行動の延長線になっている。だから想像できるし、かっこいいし、面白い。


とにかくこれでようやく第二章が終わり。
全七章くらいあることを考えると、ちょっと時間かけすぎ。
三か月掛けてこれって……

でもここで焦ったりしたらまた泥沼にはまるから、あまり気負わない程度の心構えでいきたいと思う。
検索フォーム
刊行作品

ちっちゃいホームズといじわるなワトスン 緋色の血統 (講談社BOX)

押してもいいのよ
最新記事
最新コメント
リンク
Hora fugit.
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

RSSリンクの表示
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。